2017年02月04日

アンドレア・ピルロ(Andrea Pirlo)〜フリーキックやペナルティーキックの名手〜※FIFA20 使用感

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こんにちわ

本日紹介する選手はピルロ選手です。

イタリア・ブレシア県フレーロ出身のサッカー選手。メジャーリーグサッカー・ニューヨーク・シティFC所属。ポジションはミッドフィールダー。フリーキックやペナルティーキックの名手でもある。

【クラブ経歴】
ブレシア
1995年に地元のブレシアでセリエAデビュー。翌年、クラブはセリエBに降格してしまうが、1年で昇格。この時にイタリアの至宝ロベルト・バッジョと出会い、「自らの後継者」として指名された。

インテル
セリエBでのプレーが目に留まり、1998年7月1日に自身の憧れのチームでもあったインテルに移籍した。
しかし、トップ下と言うマークの集中するポジションを担う選手としては、彼のフィジカルの脆弱さは致命的であった。選手層の厚いインテルではまともな出場機会も与えられぬまま1999年にはレッジーナ、2001年には古巣のブレシアにレンタルに出される。ブレシアではカルロ・マッツォーネ監督の下、バッジョがいることもあり中盤の底でのプレーを経験する。これが後に彼のサッカー人生を大きく変えることになる。

ミラン
2001年7月1日、インテルのライバルであるACミランに完全移籍する。しかし、トップ下にはマヌエル・ルイ・コスタがいたためファティ・テリム監督の構想外であり、出場機会はほとんどなかった。2001-02シーズン途中にカルロ・アンチェロッティが新監督に就任。アンチェロッティもトップ下にはルイ・コスタを起用し続け、試合出場を願うピルロは、通常のトップ下のポジションではなくアンカーとしての起用を直訴する。ピルロのブレシアでの経験を知っていたアンチェロッティはこれを承諾。守備主体のポジションに攻撃の要の選手を起用することは当時まだ珍しかったが、以降流行するポゼッション戦術を先取りしたコンバートとなった。トップ下ほどフィジカルの当たりが激しくない中盤の底で、クラレンス・セードルフ、ジェンナーロ・ガットゥーゾといった強力なハードワーカーや、マッシモ・アンブロジーニのような守備能力に秀でたディフェンシブミッドフィルダーといったチームメイトにも恵まれ、ピルロは攻撃の指揮を司る存在として、長短織り交ぜた正確無比なパスを供給し続けレジスタ(regista)としてのポジションを確立。今までの不振が嘘のようなパフォーマンスを披露するようになる。UEFAチャンピオンズリーグ優勝にも貢献した。そして2007年のバロンドール投票でカカ、クリスティアーノ・ロナウド、リオネル・メッシに次ぐ4位の票数を獲得した。
2009年、恩師であるアンチェロッティがチェルシーFCの監督に就任したことにより、チェルシーへの移籍が噂されていたが残留した。その後は故障が相次ぎ、本来の出来には程遠い状態が続いた。
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ユヴェントス
2011年5月18日、6月30日で満了となる契約を延長せずに10年間在籍したミランを退団する事を発表[2]。5月24日、移籍金なしの3年契約でユヴェントスFCへ移籍した。
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ライバルからの移籍であることや前年の不振から獲得には疑問の声が上がったが、ミラン時代を思わせるような正確無比なパスで一躍不可欠な存在となった。加入前は2年連続7位だったが、チームはアントニオ・コンテ新監督の下で快進撃を続け2002-03シーズン以来(※2005-06シーズンのタイトルはカルチョポリにより剥奪)のスクデット獲得・ならびに1991-92シーズンのミラン以来20季ぶり2チーム目となる無敗優勝に貢献した。また、この活躍によって、UEFA.comのシーズンレビューで年間最優秀選手に輝いた[4]。 2014-15シーズン、ミラン時代に不仲が噂されたマッシミリアーノ・アッレグリが監督に就任するものの、双方とも不仲を否定。W杯の疲労からか欠場や途中出場が多かったものの、随所で輝きを放ちユヴェントスの二冠とチャンピオンズリーグ準優勝に貢献した。

ニューヨーク・シティ
2015年7月6日、MLSのニューヨーク・シティFCに移籍が決定した。
【動画】

総合評価
攻撃力【7】
守備力【7】
センス【7】
posted by よしき at 18:00| Comment(0) | イタリア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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