2017年10月14日

木村和司(kimura kazushi)〜ミスター・マリノス 〜

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こんにちわ

本日紹介する選手は木村和司選手です。

広島市南区大河出身の元サッカー選手、サッカー解説者、サッカー指導者。現役時代のポジションはMF(攻撃的MF)またはFW(ウイング)。日本サッカー協会公認S級ライセンス所持。国際Aマッチ6試合連続ゴールは日本代表連続得点記録である(2016年時点)。
                                                   
【人物・プレースタイル】
高校や大学、日産加入当初はウインガーとしてプレーしていたが、1983年(昭和58年)に同じウイングを専門とする水沼貴史の入団をきっかけに、加茂周監督によって攻撃的MFにコンバート。以降、ゲームメーカーとして中盤に君臨し日産黄金時代を築く原動力となった。ラモス瑠偉らと共に日本サッカー冬の時代を支えた選手の一人であり、「日産の背番号10と言えば木村和司」と言わしめ、80年代半ばには日産のみならず、「日本の10番と言えば木村和司」、当時の代表は「木村のチーム」とまで言わしめた程の存在であった。1983年(昭和58年)、1984年(昭和59年)、二年連続日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)、さらに1989年も同賞受賞。三度の受賞は釜本邦茂7度に次ぐ杉山隆一と並ぶ史上2位。1984年アシスト王、アシスト数12はJSL記録。1985年5月18日メキシコW杯アジア1次予選グループ4B第4戦シンガポール戦から同年10月26日メキシコW杯アジア最終予選第1戦韓国戦まで、1985年の1年間だけで国際Aマッチ6試合連続ゴールを成し遂げた。これは未だに日本代表連続得点記録である(2011年時点)。また天皇杯に滅法強く、決勝に7回行って6回優勝、いずれも大活躍し"ミスター天皇杯"とも称された。

現役時代はフリーキックの名手として知られた。自由自在にボールをコントロールできるフリーキックは、いまだかつて日本人プレイヤーが見せたことのないものだった。その正確なボールコントロールと鋭い変化から「魔術師」の異名で呼ばれ、日本リーグ、国際試合で数々の名場面を作り上げた。特に1985年(昭和60年)、ワールドカップメキシコ大会最終予選のホーム韓国戦、試合には敗れワールドカップに出場できなかったものの、40メートル手前からみせたフリーキックは、80年代の日本サッカーにおける屈指の名シーンとして伝説化しており、現在でもサッカー番組でフリーキックが特集される際には、必ずといっていいほど紹介されている。出身地の広島を拠点とする中国新聞では「フリーキック自由自在」というコラムを設けていた。





【エピソード】
木村の代名詞であるフリーキック(以下FK)だが、蹴り始めるきっかけはテレビで観たワールドカップで、ブラジル代表のペレやリベリーノがFKで直接ゴールに放り込むのを見たこと。蹴り始めたのは大学に入ってから。"FKでも直接ゴールを狙えるんだ"と思い、遊び感覚で練習に励んだ。とはいえ足の甲は蹴り過ぎで変型しているという。もともと高校時代はウイングだったため、センタリング(クロス)は、インフロント(足甲の内側)部分を多用する事もあり、それがFKに生かされた。当時の日本にはまだ、FKを直接決める事で有名な選手はいなかった。1980年代当時、芸術的なフリーキックは世界のサッカーでは目にしても、日本サッカーでは、フリーキックが話題になることは、ほとんどなかった。本格的に練習し始めたのは日産に入ってからで、チームが特注で作ってくれた鉄骨を組み合わせたものにネットをつけた簡単な壁を置いて練習した。練習相手に選んだのが新人だった松永成立。最初はヘタでどこに蹴っても入っていたが、練習してるうち段々松永が上手くなって、両方がいろいろ考え始めて上達していく相乗効果があったという。冗談で「シゲ(松永)はワシとしょっちゅう練習していたから日本代表に入れたんだ」とよく言った。

明治在学中の木村を日本代表に最初に抜擢したのは、当時の代表監督・渡辺正だが、木村は"非常にコントロールの難しい選手"といわれ、練習嫌い、わがままという評判があり、渡辺と同郷でもあったため大学卒業後は新日本製鐵サッカー部入りが確実とされ、他はどこも手を出さなかった。しかし諸般の事情により日産に入部した。

木村が代表のスター選手だった1984年(昭和59年)夏、佐山一郎は雑誌『Number』からの依頼で木村にインタビューを申し込んだ。日産の広報の担当者にそれを話すと、サッカーの専門誌以外から取材が来たのは初めてと驚かれた。当時のサッカーは『Number』ですら同じ年9月20日号の釜本邦茂引退記念号で初めてサッカー特集が成立するというマイナー状況だった。「大丈夫ですか、慣れていないから喋んないかもしれませんよ」と言われインタビューをすると、実際木村はほとんど喋らず、答えたあとに意味不明の笑いが漏れだすのにも驚嘆した。しかし会うたび喋るのがうまくなったという。

明治大学時代の同期生であるサッカー日本女子代表監督の佐々木則夫とは、同じ寮で過ごした仲間であり今でも親交が深い。なでしこジャパンが初優勝を決めたワールドカップ決勝戦の試合も、その日は直前に自身が指揮する横浜F・マリノスの試合があったにも関わらず、試合後にほぼ徹夜でテレビ観戦しており、なでしこジャパンと佐々木にも「ホントにすごい。たいしたもんよ。世界一だからな。日本一とは違うよ。涙も出てきて感動した。ただ、眠い」と祝福のコメントをした。

1986年、奥寺康彦と共にスペシャル・ライセンス・プレーヤー第1号となるが、西ドイツ帰りの奥寺の年俸4000万円に対して木村の年俸は1200万円であった。この時は各メディアに報じられ世間の関心も高かったが、某運動部記者が木村に「1200万円では少なすぎて夢がない。嘘でもいいから4000万円と言ってくれないかな」というと、木村は「嘘はつきたくない」と拒否。しかし記者がしつこく押し問答が続いた後、折衷案として4000万円と1200万円の間を取る格好で2400万円で落ち着いた。翌日の新聞紙上には木村の年俸は「2400万円」と大々的に報じられた。

木村の夫人は、サッカーファンが多くはなかった1960年代、日本サッカーリーグ(JSL)創設の頃からのサッカーの追っかけで、まだ原宿の岸記念体育会館の小さな一室にあったサッカー協会(JFA)に、全日本(日本代表)の勝利を祈り千羽鶴を持ってきたり、よく遊びに来ていた一人だったという。
「ラグビーは紳士がやる野蛮なスポーツ、サッカーは野蛮人がやる紳士的なスポーツ」という発言を『Number』誌上に残している。

かつての自身のブログ「木村和司のちょこっと、言うちゃろうか。」で、「60年、70年代はガマさんの時代やな、80年代はワシや。90年代はスケールダウンしてカズ、ラモスあたりかの。2000年はまだいないんよな。80年代のワシはかなりイワシテいたのぅ。」と話して物議を醸したことがある。

解説者時代のコメントには、良くも悪くもアバウトなものが多い。2000年シーズン前にテレビ番組で順位予想を行った際には、その年からJ1に昇格してきた川崎フロンターレと、FC東京を、「よく見てないんで分からないんですよねー」というコメントとともに、それぞれブービーと最下位に予想していた。 
マリノス監督時には広島弁を交えたコメントが話題となった。監督就任時のコメント「わしが何とかしちゃる」のメッセージ入りTシャツや「和」のロゴ入りTシャツが商品化されよく売れた。また木村がよく使う言葉で「相手を翻弄する」という意味合いを持つ「ちゃぶる」もグッズ化の計画が上がり、Jリーグ日本人監督のグッズが次々と誕生するのは異例の事態であった。

【注目の動画】


総合評価
攻撃力【8】
守備力【4】
センス【7】


posted by よしき at 11:14| Comment(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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