2017年02月05日

ガンソ(Paulo Henrique Chagas de Lima)〜優れた戦術眼を持つクラシカルな10番〜※かつては清武とスタメン争い

gs無題.png
こんにちわ

本日紹介する選手はガンソ選手です。

ブラジル・パラー州アナニンデウア出身のプロサッカー選手。カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA・サンパウロFC所属。ポジションはミッドフィールダー。愛称のガンソとはガチョウの意。

1989年、パラー州の州都ベレンから程近いアナニンデウアで生まれる。7歳の時に地元のフットサルチームに入り、13歳からはサッカーチームでもプレーし、二つのチームを掛け持ちする。一時はパイサンドゥSCに所属するが、同郷のジオヴァンニの口利きもあり、2005年に15歳でサントスFCに入団。2007年には右膝靭帯を断裂して半年ほどピッチから遠ざかるが、リハビリを経て2008年にトップチームへ昇格した。2月17日、カンピオナート・パウリスタのリオ・プレットEC戦でデビューを果たしたガンソは、この年の州選手権で4試合、全国選手権で3試合に出場した。

2009年にはADサンカエターノへの移籍が決まりかけるが、当時の会長の判断で残留した。州選手権序盤は出場機会が限られていたが、中盤に入ると定位置を獲得し、全国選手権では背番号10を与えられた。翌2010年はネイマールとともにサントスの攻撃を牽引しブラジル代表にも選出されるが、8月末のグレミオ戦で左膝靭帯断裂の大怪我を負う。翌2011年3月にピッチに復帰するも、5月のコリンチャンス戦で肉離れを起こし6週間の戦線離脱。コパ・リベルタドーレス決勝の2ndレグで復帰すると、サントスの48年ぶりの南米王者タイトル奪取に貢献した。

2012年9月、サンパウロFCに5年契約で移籍。 当初は背番号8だったが、ジャジソンが移籍してからは念願とも言うべき背番号10を付けている。

【動画】


総合評価
攻撃力【9】
守備力【5】
センス【8】


posted by よしき at 06:00| Comment(0) | ブラジル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

レオ・シルバ〜スタミナ源はハッピーターン!?〜

無題.png
こんにちわ

本日紹介する選手はレオ・シルバ選手です。

ブラジル出身のサッカー選手。ポジションは守備的ミッドフィールダー。Jリーグ・アルビレックス新潟所属。

【経歴】
15歳でプロクラブのテストに合格。プロテストに合格する以前はフットサルをプレーしていた。2004年には20歳以下ブラジル代表に選出され、静岡県で行われたSBSカップに出場した。2012年はポルトゲーザに所属し、セリエA36試合に出場。ゲームキャプテンも務めた。
2012年12月22日、アルビレックス新潟への入団内定が発表された。獲得にあたっては、かつて新潟に所属したアンデルソン・リマの「レオ・シルバは間違いない」との助言があったという。リマはポルトゲーサのコーチとしてレオ・シルバを指導していた。彼の出身地であるサン・ルイスの地方紙 O Imparcial のウェブ版は、新潟との契約期間を5年と報じている。2013年シーズン開幕前には既に柳下正明監督の信頼を得、「レオはやりたいプレーがはっきりしている。だから周りも動かせる」と評価された。

2013年シーズン、レオ・シルバはリーグ戦32試合に出場。中盤の底で攻守にわたって存在感を見せ、ボール奪取数はリーグ最高を記録した。シーズン終了後のJリーグアウォーズでは優秀選手賞を受賞。柏レイソルや大宮アルディージャからの興味が報道されるが、2014年も新潟との契約を更新し、累積警告での欠場を除くリーグ戦33試合に出場。直接FKからの4得点を含む6得点を記録した。Jリーグアウォーズでは2年連続で優秀選手賞を受賞し、全選手中の最多得票を集めてベストイレブンに選出された。

2015年5月、肝機能数値に異常が見つかり、精密検査の為にブラジルへ一時帰国。急性胆嚢炎と診断され、現地で胆嚢摘出手術を受けた。

【プレースタイル】
中盤の底、ボランチのポジションでプレーする。新潟入団の際には「豊富な運動量で攻守両面においてチームを牽引できるボランチ。正確な技術と高い戦術センスでゲームを構築するだけではなく、フィニッシュの局面にも絡むことができる」と紹介された。

名波浩は「ボールアプローチのセンスが抜群」とし、「相手ボールに対して、自分が奪える、奪えない、もしくは周りの味方選手が奪える、奪えない、というジャッジが非常に優れている。ゆえに、味方と横にスライドしながら対応するときでも、前後でタテ関係を築いたときでも、周囲とスムーズな連係を見せて相手ボールを奪取することができる」と分析した。新潟で監督として指導した柳下正明は守備能力について「後ろから追いかけて取るというのが上手い。一度はかわされるかもしれないが、その後にすぐリカバーして奪う。これはなかなかできる選手はいないので、そこはJでも一番じゃないかな」と述べ、同時にキックの精度についても新潟入団後の成長に言及している。

【ハッピーターン】
夫人との間に2子。2013年9月27日に生まれた第2子の名前は、祖父と自らの名前からとられたブルーノ・レオナルド。来日1年目は単身新潟で生活していたが、2014年に家族も来日した。
亀田製菓が製造販売する揚げ菓子「ハッピーターン」を好み、新潟のクラブ公式サイト上の「美味しくて感動した新潟の料理」と「好きな新潟のお菓子」というアンケートには、ともにこの洋風せんべいの名を挙げている。自ら決勝点をあげて勝利した2014年3月23日のサガン鳥栖戦では、マッチスポンサーの亀田製菓からハッピーターン1年分を贈られ、満面の笑みを見せていた。2015シーズン終了後にはスカパー!で放送されたクラブオフィシャル番組の企画としてハッピーターン製造工場を見学。出来立てのハッピーターンに大量に粉を付けて食べるなど大好きっぷりを披露した。

【動画】


総合評価
攻撃力【7】
守備力【7】
センス【6】
posted by よしき at 03:00| Comment(0) | ブラジル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月01日

ルイス・アドリアーノ(Luiz Adriano de Souza da Silva)〜ミルチェア・ルチェスク監督が謝罪〜

imagesTFWELZZ6.jpg
こんにちわ

本日紹介する選手はルイス・アドリアーノ選手です。

ブラジル・リオグランデ・ド・スル州ポルト・アレグレ出身のサッカー選手。セリエA・ACミラン所属。ブラジル代表。ポジションはフォワード。

【経歴】
SCインテルナシオナル時代は、19歳でFIFAクラブワールドカップ2006に出場、対アル・アハリ戦では得点を上げるなどの結果を残している。2007年7月、カナダで行われたFIFA U-20ワールドカップにも招集され、2007年ウクライナのFCシャフタール・ドネツクに移籍。2009年にはレギュラーとしてUEFAカップ優勝に貢献した。2011年2月26日、UEFAチャンピオンズリーグ 2010-11のASローマ戦でゴールを記録した。

2012年11月20日、UEFAチャンピオンズリーグ 2012-13のFCノアシェラン戦ではハットトリックを達成するも、0-1からの同点ゴールで世界中の物議を醸した。自陣で行われたドロップボールからウィリアンが敵陣のゴールキーパーへ蹴りだしたボールを、マイボールにしキーパーをかわしてゴールした為である。ノアシェランは猛抗議したものの得点は認められ、直後のキックオフからのプレーでのプレゼントゴールも、タラス・ステパネンコが相手ボールをカットしたため行われなかった[2]。アドリアーノはこのプレーに関して、本能的なものであったとのコメントをしている。5-2で勝利しシャフタールはグループリーグ突破を決めたものの、試合後にはミルチェア・ルチェスク監督が謝罪することとなった。

11月27日、このプレーが行動規範の侵害にあたるとされ、UEFA規律委員会から1試合の出場停止処分および1日の社会奉仕活動命令を科された。

2014年10月21日、UEFAチャンピオンズリーグ 2014-15のFC BATEボリソフ戦で大会史上最多タイ記録となる1試合5得点を記録。11月5日のBATE戦では再びハットトリックを達成して大会9点目をマークし、クリスティアーノ・ロナウドの持つ大会グループリーグ最多得点記録に並んだ。
images205GK1SK.jpg
2015年6月24日、UAEのアル・アハリ・ドバイとクラブ間で合意に達したと発表した。しかし、メディカルチェックと正式契約を行う直前に入団を拒否した。中東行きは白紙に戻った。その後、イタリアのACミランへの移籍が決定した。契約は2020年6月30日まで。移籍金は600万ユーロ(約8億2000万円)だと、イギリスメディア『フットボール・イタリア』が報じた。背番号は9番。

2016年1月、中国サッカー・スーパーリーグの江蘇蘇寧への移籍が確実視されて、香港に到着していた。正式に契約を結ぶと思われていたが、江蘇蘇寧との移籍交渉が土壇場で破綻した。理由は「給料の保証」がなかったと明かしている

【動画】


総合評価
攻撃力【8】
守備力【5】
センス【7】
posted by よしき at 00:00| Comment(0) | ブラジル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月03日

テイシェイラ(アレックス・テイシェイラ・サントス)(Alex Teixeira Santos)〜ブラジル期待の若手〜

テイシェイラ.jpg
こんにちわ

本日紹介する選手はテイシェイラ選手です。
images3PG81X61.jpg
ブラジル・リオデジャネイロ州出身のサッカー選手。ウクライナ・プレミアリーグ・シャフタール・ドネツク所属。ポジションはMF。

1999年にヴァスコ・ダ・ガマのユースでキャリアをスタートした。2008年にトップチームに昇格し、同年1月に行われたドバイチャレンジカップのハンブルガーSV戦でプロデビューを飾った。この大会でマンチェスター・ユナイテッドやエヴァートンから注目を浴びた。この年カンピオナート・ブラジレイロ セリエBでも活躍した。

2009年12月21日、ウクライナのシャフタール・ドネツクと5年契約を結んだ。移籍金額は600万ユーロ(約7億8000万円)。
imagesWNYMNO2L.jpg
2007年にはブラジルU-17代表として南米U-17選手権に出場し優勝に貢献し、FIFA U-17ワールドカップ出場権を獲得した。U-17ワールドカップではベスト16で敗退するも自身は2ゴールを挙げた。2009年にはU-20代表としてFIFA U-20ワールドカップに出場し3ゴールを挙げチームを準優勝に導き、自身もシルバーボールを獲得した。
【動画】


総合評価
攻撃力【6】
守備力【6】
センス【7】
posted by よしき at 23:00| Comment(0) | ブラジル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月25日

アドリアーノ(Adriano Leite Ribeiro)〜元祖レフティモンスター〜

無題.png
こんにちわ

本日紹介する選手はアドリアーノ選手です。

ブラジルリオデジャネイロ市出身で元同国代表のサッカー選手。ポジションはフォワード。ニックネームはインペラトーレ(葡: Imperador、皇帝)。アドリアーノという男性名の由来となったローマ皇帝ハドリアヌス(羅: Hadrianus、葡: Imperador Adoriano)と彼の名前をかけた物である。

【経歴】
CRフラメンゴに在籍中の2001年に同年のワールドユースなどでの活躍がスカウトの目に留まり、セリエAのインテルへ入団。

最初のシーズン開幕後、すぐにレンタルされる予定だったが、プレシーズンマッチでレアル・マドリードと対戦した際に決めたFKを見た当時のエクトル・ラウル・クーペル監督が、しばらく手許に置いておきたいと申し出、レンタル移籍は半年見送られた。その時のFKはアドリアーノ本人もベストゴールの1つに挙げている。

その後、ACFフィオレンティーナへレンタル移籍し、1年でインテルへ戻るが、今度はパルマFCへ移籍した。
パルマでは、アドリアン・ムトゥ、中田英寿と共に前線を形成し、得点を量産。その活躍が認められ、再びインテルへ移籍し、獅子奮迅のパフォーマンスを見せてエースに成長。特に、父の死を乗り越えた後の活躍は素晴らしく、ゴール後に両手で天を指すようになった。2004年南米選手権と2005年FIFAコンフェデレーションズカップでは共に得点王とMVPに選ばれるなどの大活躍で同国を優勝に導きブラジル代表におけるポジションを確固たるものとした。

2006年W杯では2得点を挙げたが、不完全燃焼に終わり評価を下げた。2006-07シーズンは長きにわたって無得点を続け、クラブから休養を命じられた上、私生活のトラブルや怪我、監督との不和もあり、優勝戦線の先頭を走るクラブのお荷物扱いされた。翌年も2月に脹脛を負傷、3月にはディスコでの乱闘が報じられるなどする中、放出の噂が絶えなかった。本人は当時の不調や生活の乱れを、父の死や恋人との破局から酒に溺れたためとしている。
images.jpg
クラブはオフに新たなFWを補強、またUEFAチャンピオンズリーグの登録メンバー(25人)から外されるなど厳しい状況で2007-08シーズンを迎えたが、10月のレッジーナ戦で交代を命じられ不満を露にすると、その後の練習を無断欠席して物議を醸した。表向きはことあるごとに擁護してきたマンチーニ監督からも移籍を薦められるなど四面楚歌の中、11月に鬱病治療のためブラジルに帰国したが、翌月サンパウロFCへの半年間の期限付移籍が発表された。なお、イタリアでは2006年、2007年と2年連続で年間最悪選手「金のバケツ賞」を受賞、2008年にも3位にランクされた。
2008年1月から母国でプレー。相手DFへの頭突きによる出場停止処分や、規律を乱す行動から40%の減俸となるなどトラブルも続いたが、28試合で17得点をあげるなど概ね好調を保ち、夏にインテルに復帰した。当初は新監督モウリーニョのもと活躍を見せて復調を印象付けたが、11月以降は遅刻や夜遊びといった規律違反から再びスタメンを外れがちとなり、12月中旬に負傷者リスト入りしてそのまま帰国。CRフラメンゴへの移籍が決定寸前と報じられたが実現せず、2009年が明けるとチームに合流、リーグ戦やカップ戦で得点を記録するなど活躍を見せた。しかし4月には代表戦でブラジル入りしたままイタリアに戻らず、一時失踪して消息を絶ち、誘拐説や死亡説まで流れる騒動となった。間もなく姿を現し会見、このままブラジルに残り、サッカー選手としての活動をしばらく中断することを表明した。サッカーをする喜びを失ったこと、イタリアでの生活が辛かったことを理由に挙げている。
1images.jpg
騒動後はインテルとの契約を解除して無所属となっていたが、5月に自身が初めてプロ契約をしたブラジルのCRフラメンゴに入団。母国ではやはり好調で、47試合に出場して35得点を記録し、チームの17年ぶりのブラジル全国選手権制覇に貢献、再び欧州復帰が取りざたされていたところ、2010年6月9日にASローマへの移籍が発表された。しかし2010-11シーズンは怪我や減量の失敗などに見舞われ出場もままならず、2010年末には3年ぶり3度目となる「金のバケツ賞」に選出された。2011年2月には肩の負傷でブラジルに戻ると、現地での飲酒や運転免許剥奪が報じられたあげくイタリア帰国を無断で延期するなどまたしてもトラブル続きで、3月8日にローマから契約解消が発表された。

2011年3月28日にカンピオナート・ブラジレイロのコリンチャンスとの契約が発表された[1]。しかし4月19日には練習中にアキレス腱を断裂、10月に復帰したがシーズン4試合の出場にとどまった。12月に1年間の契約延長が決まり、コーチと共に減量に取り組んでいたが、練習態度などを問題視され、2012年3月13日にコリンチャンスから契約解除を発表された。
images33VGBC3S.jpg
2012年8月22日にCRフラメンゴに復帰したが、11月6日に契約を解除された。翌2013年3月にはSCインテルナシオナルとの入団に近づいたが、メディカルチェックで不合格となり契約に至らなかった。
2014年2月11日、アトレチコ・パラナエンセと契約したが、監督とのトラブルや練習の無断欠席、試合翌日にナイトクラブに姿を見せるといった規律違反を犯し、2ヶ月で契約解除に至った。
2014年12月26日、リーグ・ドゥのル・アーヴルACに加入した[5]。だが契約寸前まで行っていたが、ル・アーヴルAC側の問題により破談となった。
2016年1月29日、NPSL(アメリカ4部)のマイアミ・ユナイテッドFCと契約を結んだと発表された。

※ザッケローニが最高のFWに挙げたアドリアーノの現在が悲惨だった
→ピッチ外でのトラブルが尽きず、それが原因でクラブから契約を解除されることもあった。私生活ではトラブルが続き、アルコール依存症に苦しめられた。

【レフティモンスター】



総合評価
攻撃力【8】
守備力【4】
センス【8】
posted by よしき at 07:00| Comment(0) | ブラジル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。