2016年09月26日

ノリート(マヌエル・アグード)(Manuel Agudo Durán)〜遅れ咲きの苦労人ストライカー〜マンCへ移籍



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こんにちわ

本日紹介する選手はノリート選手です。

スペイン・サンルーカル・デ・バラメーダ出身のサッカー選手。ポジションはフォワード。

【略歴】
生地であるサンルーカル・デ・バラメーダの地元クラブからキャリアをスタートさせ、2006年には才能を認められバレンシアCFのカンテラへと移籍を果たす。
ところが、層の厚いバレンシアでは結果を残すことができず、エシハへとレンタル放出されてしまう。このエシハで2007-2008シーズンのセグンダ・ディビシオンB優勝という歓喜を味わい、ここに貢献したことが認められレンタル期間終了も重なったことから2008年夏にルイス・エンリケが指導していたFCバルセロナBへと引き抜かれる。
アトレティックでは、再びベンチを温めることが多くなり、ジェフレン・スアレスやビクトール・バスケスといった年下の有望株に先を越された。
2010年12月、バルサの選手としては異例のレアル・マドリードへの移籍願望を明かした。これは、ノリートが20歳を超えてからアトレティックに加入し、他の選手ほどバルサに愛着がない事が理由であったが、バルセロナのファンから猛烈な批判を受ける結果となった。
2011年7月1日、バルセロナとの契約が満了し、ポルトガルのSLベンフィカに5年契約で移籍した。移籍初年こそ29試合11得点という成績を上げたが、翌シーズンには出場機会が減り、6試合で1得点という成績に終わる。冬の移籍市場でグラナダCFへレンタル移籍をして、スペインへ帰国。
2013年、バルセロナB時代の指揮官であったルイス・エンリケの指導するセルタ・デ・ビーゴへ移籍。


【セルタで大ブレイクのFWノリート、バルサへの復帰話を一蹴】
セルタ所属のスペイン代表FWノリートは冬の移籍市場でバルセロナへ復帰するうわさを否定した。11日、スペイン紙『マルカ』が報じている。

1月の移籍市場で古巣バルセロナへの復帰がうわさされていることについて、ノリートは「僕は地に足をつけている。僕の未来についてのうわさには耳を傾けないことにしているんだ。なるようにしかならないからね。僕は今セルタで満足しているよ」とコメントし、移籍話を一蹴した。
ノリートはバルセロナBに所属していた3年間(2008-11)と、セルタでの初めのシーズン(2013)の計4年間を現在のバルセロナ監督であるルイス・エンリケに師事。本人も「ルイス・エンリケは僕にフットボールの良い面も悪い面も本当に多くを教えてくれた。いつも正面から向き合ってくれて、父親のような存在だ」と恩師との信頼関係を公言していたこともあり、古巣に復帰するのではないかと報じられていた。

【動画】


総合評価
攻撃力【9】
守備力【6】
センス【7】


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2016年06月05日

イスコ(Francisco Román Alarcón Suárez)〜イニエスタ「スペイン代表の未来」〜

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こんにちわ

本日紹介する選手はイスコ選手です。

スペイン・アンダルシア州マラガ県出身、レアル・マドリード所属のスペイン代表サッカー選手。ポジションはFW、MF。

【特徴】
強さと技術を併せ持ち、俊敏さやポゼッションはセルヒオ・アグエロに、プレーのヴィジョンやボールコントロール、パスの技術などはジネディーヌ・ジダンに例えられる。スペイン代表においてはアンドレス・イニエスタの後継者と見做され、イニエスタはイスコを「スペイン代表の未来」と語っている。また、攻撃面だけでなく守備も含めてチームに貢献する。



【バレンシア】
バレンシアCFの下部組織出身。2009-10シーズンはリザーブチームであるバレンシアCF・メスタージャでプレーし、セグンダ・ディビシオンB(3部相当)で25試合に出場して1得点を挙げたが、チームはシーズン終了後にテルセーラ・ディビシオン(4部相当)に降格した。2010年11月11日、コパ・デル・レイのUDログロニェス戦(4-1)でトップチームデビューし、この試合で2得点を記録した。11月14日のヘタフェCF戦(2-0)では、後半28分にアリツ・アドゥリスとの交代で途中出場し、プリメーラ・ディビシオン(1部)デビューを果たした。2010-11シーズンのリザーブチームでは15得点を挙げてセグンダ・ディビシオン復帰に貢献した。

【マラガ
2011年7月11日、マラガCFと5年契約を結んで移籍した。移籍金は600万ユーロ[7]。11月21日のラシン・サンタンデール戦(3-1)で移籍後初得点を挙げ、翌週のビジャレアルCF戦(2-1)でも得点した。2011-12シーズンは32試合に出場して5得点し、4位に入ったマラガはクラブ史上初めてUEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。2012年9月18日、FCゼニト・サンクトペテルブルク戦でUEFAチャンピオンズリーグ初出場を果たすと、この試合で2得点を挙げてチームを3-0の勝利に導き、マン・オブ・ザ・マッチに選出された。
マラガの躍進に大きく貢献したイスコには多くのクラブが獲得に動いた。レアル・マドリードへの移籍が秒読みとなった際、オーナーであるシェイク・アブドゥラ・ビン・ナッサル・アル・タニは、「イスコのために、背番号22は他のどの選手も着けることはできない」と敬意を表した。

【レアル・マドリード】
マンチェスター・シティやチェルシーが獲得に動いたが、2013年6月27日、レアル・マドリードに5年契約で移籍決定。移籍金は3000万ユーロ(約38億円)前後と見られている。

リーグ開幕戦となるレアル・ベティス戦ではスターティングメンバーに名を連ね、1ゴール1アシストの活躍でチームを勝利に導いた。その後も第3節のアスレティック・ビルバオ戦で2得点を記録するなど、リーグ開幕5試合で4得点を挙げて得点力を示した。しかし、フォーメーションが4-5-1から4-3-3に代わって攻撃的MFのポジションが無くなったことや、インサイドハーフにコンバートされたアンヘル・ディ・マリアの活躍などによりベンチに座ることが多くなった。当初は初めてプレーするポジションに苦しんだが徐々に適用を見せ、カルロ・アンチェロッティは新たなポジションでプレーするイスコをかつての教え子であるクラレンス・セードルフになぞらえて賞賛した。




翌シーズンはUEFAスーパーカップとFIFAクラブワールドカップのタイトルを獲得。レアル・マドリード・カスティージャで監督を務めるジネディーヌ・ジダンは「技術的には私と同じレベルにあるように見える」と評し、スペイン紙マルカもまた「(ジダンは)サンティアゴ・ベルナベウで見ることができた最後の天才だったが、イスコの加入によって状況は変わった」と賞賛した。

2015-16シーズンより、背番号が23からマラガ時代にも背負っていた22に変更となった。同シーズンに監督に就任したラファエル・ベニテス監督との確執が騒がれ、冬の移籍市場での移籍が報道されたが、解任されたベニテスの後任となったジネディーヌ・ジダン監督のもと、信頼を取り戻しジダン監督の初陣でらスターティングメンバーに名を連ねている。


総合評価
攻撃力【8】
守備力【6】
センス【8】
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2016年04月24日

ペドロ(Pedro Rodriguez Ledesma)〜バルサルーツのタイトルフォルダー〜

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こんにちわ

本日紹介する選手はペドロ選手です。

【動画】

スペイン、サンタ・クルス・デ・テネリフェ出身のサッカー選手。プレミアリーグ・チェルシーFC所属。スペイン代表。ポジションはフォワード。

バルセロナ下部組織時代の登録名は『ペドリート』であり、トップチーム昇格後に『ペドロ』に変更した。

5度のリーグ制覇、3度のUEFAチャンピオンズリーグ制覇、2度のFIFAクラブワールドカップ制覇、3度のUEFAスーパーカップ制覇、3度の国内カップ戦制覇の他、スペイン代表の2010 FIFAワールドカップやUEFA EURO 2012の優勝メンバーでもある。

2010年5月20日、2010 FIFAワールドカップに向けた23人のスペインA代表メンバーに選出され、A代表初招集となった。大会前の5月29日、サウジアラビアとの親善試合(3-2)で代表初出場を記録すると、直後の韓国戦(1-0)にも58分から途中出場した。6月8日、大会前最後の親善試合となったポーランド戦(6-0)で、フェルナンド・トーレスのアシストから代表初ゴールを挙げた。

2010 FIFAワールドカップ本大会では5試合(このうち3試合は終了間際の途中出場)に出場した。グループリーグでは初戦のスイス戦に途中出場しただけであったが、決勝トーナメントでは1回戦のポルトガル戦と準々決勝のパラグアイ戦に途中出場し、パラグアイ戦ではゴールポストを直撃するシュートを放ってダビド・ビジャの決勝点を演出した。準決勝のドイツ戦では不調のトーレスの代わりに初めて先発出場し、精力的な動きで相手DFフィリップ・ラームと対等に渡り合った。1-0とリードしていた82分にはフリーのトーレスを差し置いてシュートを試みたが、トニ・クロースにクリアされた。決勝のオランダ戦(1-0)にも右サイドハーフとして先発出場し、60分でヘスス・ナバスと交代したが、チームは延長戦の末に勝利して初優勝を果たした。

2012年10月12日のW杯予選・ベラルーシ戦では代表では初となるハットトリックを達成するなど、全4得点に絡む活躍をみせた。

2007-08シーズン
2008年1月12日、レアル・ムルシア戦(4-0)の試合終了間際に出場してトップチームデビューした。しかし、トップチームの右ウイングにはリオネル・メッシが君臨していたため、わずかな出場時間にとどまった。

2008-09シーズン
2008年夏のプレシーズンマッチで質の高いプレーを披露し、ハイバーニアンFCとニューヨーク・レッドブルズとの親善試合で得点を決めた。8月13日、UEFAチャンピオンズリーグ予選3回戦ヴィスワ・クラクフ戦(4-0)で先発出場し、トゥーレ・ヤヤと途中交代するまでプレーした[7]。アル・アハリとの親善試合での活躍が決定打となり、8月21日にトップチームとプロ契約を結んだ。下部組織時代に着用していた背番号7を好んでいるが、トップチーム昇格時は既にエイドゥル・グジョンセンが着用していたため、背番号17を選んだ。グジョンセンは2008-09シーズン終了後にASモナコへ移籍したが、空き番となった7は2010年にバレンシアCFから加入したダビド・ビジャに渡された。9月16日、スポルティング・リスボン戦(3-1)でティエリ・アンリとの途中交代でUEFAチャンピオンズリーグのグループリーグ初出場を果たした[8]。FCバルセロナが3冠を獲得した2008-09シーズンは通算14試合に出場した。リーグ戦ではヘタフェCF戦(1-1)、バレンシアCF戦(4-0)、レアル・バリャドリード戦(1-0)、すでに戴冠を決めた後のCAオサスナ戦(0-1)に計365分間出場した。同シーズンのコパ・デル・レイではベニドルムCF戦(1-0)[13]とアトレティコ・マドリード戦(3-1)に、いずれもメッシとの交代で途中出場した。UEFAチャンピオンズリーグ決勝のマンチェスター・ユナイテッドFC戦(2-0)ではアンドレス・イニエスタとの交代で試合終了前の数分間だけプレーした。

8月16日、スーペルコパ・デ・エスパーニャのアスレティック・ビルバオ戦(2-1)では、67分にシャビのアシストから公式戦初得点を決め、タイトル獲得に貢献した。スーペルコパの数日後に2014年までの契約延長に合意し、違約金は6000万ポンドに設定された。UEFAスーパーカップのFCシャフタール・ドネツク戦(1-0)では80分にズラタン・イブラヒモビッチとの交代で試合に出場し、延長戦で決勝点を決めた[16]。9月28日、UEFAチャンピオンズリーググループリーグのFCディナモ・キエフ戦(2-0)のハーフタイムにアンドレス・イニエスタとの交代で出場し、その後同大会初得点を決めた[17]。ペドロはこの後も好調を続け、10月3日のUDアルメリア戦(1-0)では決勝点を決め、10月28日のコパ・デル・レイ、ベスト32のCDレオネサ戦(2-0)では2試合で3得点を決めた。レギュラーの地位を不動のものとしたペドロは、11月7日のRCDマジョルカ戦(4-2)でも2得点し、11月24日にはUEFAチャンピオンズリーグのインテル戦でもチームの2点のうち1点を決めた。12月にはFIFAクラブワールドカップに出場し、準決勝のアトランテFC戦(3-1)で決めた得点は大会通算100得点となる節目の得点であった。2009年には国内の3大会(リーガ・エスパニョーラ、コパ・デル・レイ、スーペルコパ・デ・エスパーニャ)と国外の2大会(UEFAチャンピオンズリーグ、UEFAスーパーカップ)でも得点しており、1シーズンの間に6大会でゴールを決めた初めての選手となった。決勝ではエストゥディアンテスに勝利して優勝し、Goal.comが選出するワールド・プレーヤー・オブ・ザ・ウィークに選ばれた[24]。2010年にクラブが出場した6大会すべてで得点を挙げ、全公式戦で13ゴールを奪った。

2010年1月10日には故郷のクラブであるCDテネリフェと対戦(5-0)し、76分に途中出場して相手GKエセキエル・ルナのオウンゴールを誘った。相手チームに敬意を払い、ゴールセレブレーションは行わなかった。4月10日にはレアル・マドリードとのエル・クラシコ(2-0)に初出場し、チームの2点目を決めた。4月14日のデポルティーボ・ラ・コルーニャ戦(3-0)では、相手GKダニエル・アランスビアのクリアボールを拾い、40ヤードの距離から左足でロングシュートを決めた[28]。UEFAチャンピオンズリーグ準決勝ではインテルと対戦し、結果的に敗退することになったが、サン・シーロで行われたファーストレグ(1-3)で得点した。リーグ戦ではシーズン終盤までレアル・マドリードと激しい優勝争いを繰り広げたが、ペドロは36節のCDテネリフェ戦(4-1)、37節のセビージャFC戦(4-1) 、最終節のレアル・バリャドリード戦(3-2) と3戦連続で得点し、優勝に花を添えた。2009-10シーズンは全コンペティションを通じて53試合に出場(このうち先発出場は31試合)し、23得点を挙げた。2010年6月9日、クラブとの5年間の契約延長に合意した。

2010-11シーズン
ペドロは明確なレギュラーとして2010-11シーズンの開幕を迎えた。2010年11月29日、5-0と圧勝したレアル・マドリードとのエル・クラシコではチームの2点目を決めて首位を奪い返し、12月に行われたRCDエスパニョールとのバルセロナ・ダービー(5-1)では2得点して大勝に一役買った。2011年4月20日、コパ・デル・レイ決勝のレアル・マドリード戦(0-1)後半にゴールネットを揺らしたが、オフサイドの反則があったとして得点は認められなかった。5月3日にはUEFAチャンピオンズリーグ準決勝セカンドレグ(1-1)でも同じ相手と対戦し、イケル・カシージャス相手に得点した。同大会決勝ではマンチェスター・ユナイテッドFCと対戦(3-1)し、先制点を決めて優勝に貢献した。

2011-12シーズン
FIFAクラブワールドカップで骨折したダビド・ビジャが12月以降全試合を欠場するシーズンとなったものの、ペドロ自身も度重なる怪我でコンディションが上がらず、新加入のアレクシス・サンチェスや、Bチームからイサーク・クエンカ(シーズン途中にトップ登録)やクリスティアン・テージョの活躍が目立ち、レギュラーを掴んでいた過去2シーズンに比べ出場機会が減ってしまう。しかし、シーズン最終戦となったコパ・デル・レイ決勝では、開始早々の先制点を含む2ゴールをあげ、優勝に貢献した。
9月21日のラーヨ・バジェカーノ戦ではクラブでは公式戦初のハットトリックを達成した。
ルイス・スアレスの加入により出場機会が減ってしまったが、2015年6月4日にはバルセロナとの契約期間を2019年6月まで延長することで合意したと公式発表した[39]。契約解除条項は1億5000万ユーロ(約210億円)に設定。




マンチェスター・シティやマンチェスター・ユナイテッドへの移籍が噂がある中で、2015年8月11日に行われた2015 UEFAスーパーカップでは延長戦で決勝ゴールを記録した。バルセロナでリーガ・エスパニョーラ優勝5回、チャンピオンズリーグ優勝3回を含む20のタイトルを獲得した。


契約延長したこともあってバルセロナに残留するかと思われていたが、2015年8月20日にイングランドのチェルシーFCへの移籍を公式サイトで発表した。移籍金は3000万ユーロ(約41億5000万円)で、その内300万ユーロ(約4億1000万円)はパフォーマンスによる出来高払いだと公表した背番号は17番。リーグ戦第3節のウェスト・ブロムウィッチ戦で初先発して移籍後初得点を決める。


総合評価
攻撃力【8】
守備力【6】
センス【7】
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2016年03月17日

ダビド・デ・ヘア(David de Gea Quintana)〜ドーナツ泥棒〜※動画あり

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こんにちわ

本日紹介する選手はダビド・デ・ヘア選手です。

スペイン・マドリード出身のサッカー選手。プレミアリーグ・マンチェスター・ユナイテッドFC所属。スペイン代表。ポジションはゴールキーパー。

【悪童】
※ドーナツ万引き事件
→イギリス『サン』によると、デ・ヘアはスーパーマーケットで1.19ポンド(約143円)のドーナツを手に取り、支払いもせずに退店しようとして警備員に呼び止められたようだ。
友人2人とともに取り調べを受けたデ・ヘアだが、罰金も警察に通報されることもなく、ことなきを得たという。スーパーマーケットの広報は「1人の客が警備員から質問を受けた。トラブルは解決している」と言うにとどまっている。

2011年6月27日にイングランド・プレミアリーグのマンチェスター・ユナイテッドFCのメディカルチェックを受け、6月29日に5年契約を交わした。7月23日、シカゴ・ファイアーとのプレシーズンマッチ(3-1)でマンUでの初出場を飾った。8月7日、FAコミュニティ・シールドのマンチェスター・シティFC戦(3-2)で公式戦デビューした。前半に2点を失ったが、後半に3点を奪って逆転勝利した。コミュニティ・シールドの1週間後、開幕のウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンFC戦でプレミアリーグデビューし、シェーン・ロングのなんでもないシュートを後逸して失点したが、チームは2-1で勝利した。WBA戦の翌節のトッテナム・ホットスパーFC戦(3-0)でオールド・トラッフォードデビューし、何度かの決定機を防いで移籍後初のクリーンシートを達成した。トッテナム戦の6日後のアーセナル戦ではロビン・ファン・ペルシーのPKを防いだ。その後も何度かファン・ペルシーとアンドレイ・アルシャビンのシュートをセーブし、強豪相手の8-2という大勝につなげた。9月18日のチェルシーFC戦では印象的なセーブを何度も見せ、特にラミレスが空のゴールにシュートした場面では体全体を投げ出してゴールを阻止した。続くストーク・シティFC戦(1-1)でも2度の美しいセーブを見せ、急速なパフォーマンス改善を印象付けた。9月27日、UEFAチャンピオンズリーグのFCバーゼル戦(3-3)では、同大会において自身初の先発出場を果たした。10月23日に行われたマンチェスター・シティとのマンチェスター・ダービーでは、1955年以降のホームゲームで最悪となる6失点を喫した。その後はアンデルス・リンデゴーアとの併用となったが最終的には29試合に出場した。2013-2014シーズン、2014-2015シーズン共にチーム内のシーズンMVPに選ばれた。




2015年8月31日、かねてから移籍が噂されていたレアル・マドリードへの移籍合意が報道されたが、移籍や選手登録に必要な書類を移籍期限内に提出することが出来ずに破談となった。この件については両クラブが互いの不手際を指摘し、非難し合う事態となった。シーズン中の対応に注目が集まったが9月11日、マンチェスター・ユナイテッドとの4年間の契約延長に合意した。

代表
2007年にはU-17スペイン代表としてUEFA U-17欧州選手権2007に出場して優勝し、同年のFIFA U-17ワールドカップでは準優勝した。2011年にはU-21スペイン代表としてUEFA U-21欧州選手権に出場して優勝した。

A代表
2010年5月10日、ビセンテ・デル・ボスケ監督によって2010 FIFAワールドカップのスペイン代表候補30人に選出されスペインA代表初招集となったが、本大会に出場する23人からは外れた。
2014年6月7日に行われたエルサルバドル代表との親善試合でA代表初出場を果たした。
【動画】

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攻撃力【5】
守備力【8】
センス【9】
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2016年02月09日

シャビ・アロンソ(Xabier Alonso Olano)〜バスクの星・ピッチ上の指揮官〜

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こんにちわ

本日紹介する選手はシャビ・アロンソ選手です。

スペイン・バスク州ギプスコア県トロサ出身のプロサッカー選手。ブンデスリーガ・バイエルン・ミュンヘン所属。スペイン代表。ポジションはMFで、ピボーテの位置を得意とする。

「バスクの星」と呼ばれる。元スペイン代表でもある父のペリコ・アロンソは80年代にリーガ2連覇を達成したレアル・ソシエダのスターだった。兄のミケル・アロンソもレアル・ソシエダに所属したサッカー選手である。1男1女の父親でもある。
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中盤の底のピボーテのポジションで、広い視野とレンジが広く精度の高いパスで守備と攻撃を繋ぐ役割を担う。ピッチ上での状況判断に優れており、パスのアイディアも豊富である。ジョゼ・モウリーニョからは「ジョゼップ・グアルディオラに似ている」と絶賛され、「ピッチ上の指揮官」と評された。フランツ・ベッケンバウアーからも、「インテリジェンスがあり、完璧に試合を支配することのできる選手。デットマール・クラマーの教え(オフ・ザ・ボールの動き)を完璧にこなすことができる」と評価されている。

16歳の時には英語を学ぶために1ヶ月間アイルランドで過ごしたほか、大学を卒業しており、知的な人物と見られている。リヴァプールの町の歴史に詳しいなど、プレー以外でもリヴァプールファンの心をつかんでいた。レアル・マドリード移籍後もリヴァプールのファンであり、タイムズ・オンラインで「自分はいまだリヴァプールのファンであり、これからもそうあり続ける」と語った。リヴァプールで生まれた息子は、リヴァプールのサポーターとして育てている。
アーセナルFC所属のミケル・アルテタは幼馴染であり、アルテタが2005年にエヴァートンFCに移籍する際にはリヴァプールの良さを伝え、リヴァプールでもお互い近所に住んでいた。また、同じくバスク出身でありレアル・ソシエダのチームメイトでもあったファン・ウガルテとも仲が良く、2004年にレクサムFCへ移籍する際にも彼を説得した。
自分が所属した各クラブのユニフォームを持っているほか、ジネディーヌ・ジダンやアラン・シアラー、ロイ・キーン、ポール・スコールズ、パベル・ネドベドら対戦相手のユニフォームも保持している。中でもジダンを直接対決した中で最高の相手に挙げており、「サッカーの模範というべき存在」と述べている。また、共にプレーした選手ではサミ・ヒーピアを一番インパクトを受けた選手としている。その他にも、ビセンテ・デル・ボスケを敬愛していると語った。同じピボーテのポジションで手本としていた選手は、フェルナンド・レドンドとジョゼップ・グアルディオラ。
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幼少期に6年間バルセロナで過ごした後、サン・セバスティアンへと移った。サン・セバスティアンのビーチ、ラ・コンチャでミケル・アルテタらと遊ぶうちにテクニックを身に付けた。

サン・セバスティアンのクラブであるアンティグオコで才能を見せ、レアル・ソシエダの下部組織へと入団。1997年にレンタル先のエイバルでデビュー。2部リーグでのプレーだったが多くの出場機会を与えられプレーメーカーとしての能力を磨くと、再びレンタルでエイバルに放出された2001-02シーズンを機にレアルでもレギュラーの座を確保した。

2002-03シーズン開幕当初、2部降格候補の一角でしかなかったレアルの中で、アロンソは期待の一若手に過ぎなかったが、レイノー・ドヌエ監督の下ラ・レアルは大躍進。アロンソは非常に正確なパスで攻撃を自由自在に操り、終わってみればシーズンを2位で終える成功を収めUEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得する原動力となった。そして、その年のドン・バロン・アワード・最優秀スペイン人選手に選ばれた。

翌の2003-04シーズンは、リーガ・エスパニョーラとチャンピオンズリーグに並行して出場するという「二足のわらじ」が足枷となり、リーガでは2002-03シーズンと比べると明らかに見劣りする12位という結果に終わったが、チャンピオンズリーグではチームをベスト16に引き上げる原動力になった。これを機にアロンソの名は本格的に世界に知れ渡って行く。
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レアル・マドリードやリヴァプールなど、数々のクラブが彼を獲得しようと動いた。本人は残留の意を表していたが、クラブ側の都合で放出されることが決定し、ラファエル・ベニテスが指揮を執ることとなったリヴァプールに1600万ユーロ (約21億6,000万円) で移籍する決意をする。アロンソ本人は、過去バレンシアで2度のリーグ優勝や1度のUEFAカップ制覇を遂げたベニテス監督の下で指導を受けたかったという。

リヴァプール移籍1年目の2004-05シーズン、ボルトン戦にてプレミアリーグデビューを果たすと、1-0で破れはしたもののアロンソはパスの技術をメディアから賞賛された。フラム戦では、2得点を奪われた状態で折り返した後半から途中出場すると、フリーキックからリヴァプールでの初ゴールを記録。その試合、リヴァプールは後半4得点を挙げて逆転勝利した。

元日のチェルシー戦でフランク・ランパードにタックルを受け、左足首を骨折した。全治5カ月で戦線離脱を余儀なくされるが、驚異的な回復力を見せシーズン終盤に復帰。チャンピオンズリーグでは決勝に出場し、決勝のACミラン戦ではPKのこぼれ球を押し込む同点ゴールを挙げ、チームの逆転優勝に貢献した。




2006年1月7日に行われたFAカップ3回戦、ルートン・タウンFC戦では、自陣から60ヤード強のロングシュートを決めた。この試合、アロンソが自陣からゴールを決めることに200ポンドを賭けていたリヴァプールファンがこのゴールで25,000ポンドを得た[13]。ウェストハムとのFAカップ決勝でもフリーキックからスティーヴン・ジェラードの同点ゴールをアシストし、タイトル獲得に貢献。また、2006年9月20日、ニューカッスル戦でも70ヤードのロングシュートを記録。このゴールはBBCから「常軌を逸した」と表現され[14]、インデペンデント紙からはクラブ史に残るゴールの一つと評された。

リヴァプールで同僚のディルク・カイト(2007年4月)
2007-08シーズン初めは、怪我によるジェラードの不在のため、本来の位置よりも前のポジションでプレー。6-0で勝利したダービー・カウンティFC戦では2ゴールを挙げた[16]。ポーツマス戦で軽傷を負ってしまい、更にその後のトレーニングで悪化。6週間の離脱を余儀なくされた[17]。2007年の終わりに怪我から復帰したが、その後の数ヶ月間はハビエル・マスチェラーノ、ルーカス・レイヴァらとの激しいポジション争いが続いた[18]。2008年1月12日、ミドルスブラとの試合でリヴァプール100試合出場を達成した。

2008年の夏の移籍市場では、中盤の補強を進めるユヴェントスが強い興味を示し、また、ベニテスがアストン・ヴィラのギャレス・バリー獲得のための移籍資金捻出のため放出の意向を示し、移籍間近とも言われたが、結局リヴァプールに残留。

2008-09シーズンは、夏の市場でチームが自身を放出をしようとしたことに対し、スタンフォード・ブリッジでのチェルシー戦ではその試合唯一の得点を挙げてチェルシーの過去4年間のホーム無敗記録を破るなど、うっぷんをはらすかのように中盤の核的な存在として大活躍し、マンチェスター・ユナイテッドとの熾烈な優勝争いを演じる原動力となった。

前年同様に2009年夏の移籍市場では移籍が騒がれ、特に銀河系軍団の再構築を目標としているレアル・マドリード会長のフロレンティーノ・ペレスや、前年の夏同様ユヴェントス、そして莫大な資金力をバックに持つマンチェスター・シティが強い興味を示した。これに対しベニテス監督は移籍の可能性を否定していたが、アロンソは移籍を直訴し、8月に移籍金推定3000万ユーロ(約40億5,000万円)でレアル・マドリードへ移籍。クラブにはすぐに馴染み、スペイン・マルカにてリーガ・エスパニョーラのベストイレブンに選ばれる、シャビ、ハビ・マルティネスらと共にスペインプロリーグ機構の選ぶLFPアワード、最優秀MFにノミネートされるなどの活躍を見せた。また、いくつかのスペインの報道機関やサポーターからはLa Barba Roja (赤髭)というニックネームもつけられた。

副キャプテンであるグティがベシクタシュへ移籍したことにより、2010-11シーズンから背番号は22番から代表でも付けている14番に変更になった。ジョゼ・モウリーニョからは不在がチームに大きな影響を与える選手と評価された。チャンピオンズリーググループリーグアヤックス戦で、4-0でリードした後半終了間際にアロンソとセルヒオ・ラモスが相次いで遅延行為で退場となった[24]。退場の直前にイェジー・ドゥデクがイケル・カシージャスに耳打ちをしていたシーンも流され、トーナメント前に累積警告を消化するため故意に反則を犯した疑いがあるとしてUEFAの調査が入ることとなった[25]。そして、アロンソ自身には2万ユーロの罰金が科せられた[26]。2011年、2010 FIFAワールドカップで優勝したことなどを評価され、地元からタンボール・デ・オロ(金の太鼓)を受賞した。W杯後のシーズンであったもののキャリア最多となる公式戦52試合に出場し、スペインでの自身初タイトルとなったコパ・デル・レイ優勝にも貢献した。

2011-12シーズンのリーグ開幕前、ホームエスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウにFCバルセロナを迎えた2011年のスーペルコパ・デ・エスパーニャでは同点ゴールを記録した。2011年9月21日のラシン・サンタンデール戦で、レアル・マドリード100試合出場を達成。2011-12シーズンには、キャリア初のリーグ優勝を経験した。

レアル・マドリードでプレイするアロンソ(2012年2月)
2013-14シーズンのUEFAチャンピオンズリーグでは優勝に大きく寄与したが、準決勝のバイエルン・ミュンヘン戦第2試合でイエローカードを受けたことにより、累積警告によって決勝に出場することは出来なかった。

バイエルンで練習をするアロンソ(2015年)
2014年8月、ドイツ・ブンデスリーガのバイエルン・ミュンヘンへ完全移籍した。9月27日、リーグ戦第6節の1.FCケルン戦で206回のボールタッチを記録。同僚のチアゴがもっている185回のブンデスリーガ記録を更新した。
2015-16シーズンから背番号を3番から14番に変更。
2015年12月18日にバイエルン・ミュンヘンとの契約を2017年まで延長したことを発表した。

スペインのU-21チームで大活躍し、2003年4月にイニャキ・サエス監督からのエクアドルとの親善試合に招集された(試合は4-0で勝利)。ポルトガルで行われたEURO2004にも出場し、ウクライナ戦で初先発したが、当時、リーガ・エスパニョーラ最高のドブレ・ピボーテとも言われていたバレンシアの双頭、ルベン・バラハとダビド・アルベルダからレギュラーの座を奪うことはできなかった。2006 FIFAワールドカップに向けたメンバーにも招集され、レギュラーとして3試合に出場。ウクライナ戦では得点も記録した。

2006FIFAワールドカップではDFラインの前のアンカーのポジションで起用され、その一方でDFラインを大きく押し上げる戦術を用いた。しかし、DFラインの後に広大なスペースを残す弱点を突かれ、フランス戦ではフランク・リベリーに同点ゴールを許し、チームも敗れた。

EURO2008ではスペイン代表の中盤のポジションには「クアトロ・フゴーネス」と称されるシャビ、イニエスタ、セスク・ファブレガス、ダビド・シルバら優秀なMFが多くいるためレギュラーを掴めていなかったが、彼らにない守備力を生かしスーパーサブとしてスペインの優勝に貢献した。グループリーグ最終戦となるギリシャ戦ではマン・オブ・ザ・マッチにも選ばれた。

大会後、監督がビセンテ・デル・ボスケへ交代してからは、広い視野と展開力を買われ、中盤司令塔のポジションでレギュラーに定着。2010 FIFAワールドカップにおいても全試合に先発出場した。決勝戦であるオランダでは、28分にナイジェル・デ・ヨングからタックルを受けて負傷。しかし、その後も87分にセスク・ファブレガスと交代するまで試合に出続けた。その試合は両チーム合わせて14枚(内スペイン5枚)ものイエローカードが出る荒れた試合となり、またオランダの伝説的選手であるヨハン・クライフもラフプレーの多い母国代表を批判した。試合後、デ・ヨングのタックルについてアロンソは「これまでに受けたタックルの中でも最悪のものの一つ」と語った。

EURO 2012でプレーするアロンソ
EURO2012でもすべての試合に先発出場し、大会優秀選手の一人に選ばれる活躍で優勝に貢献した。過去国際大会で6度対戦して一度も勝利したことのなかったフランスとの決勝トーナメント第1戦では2得点を記録し、自身の代表通算100試合目を祝った。

2012年ごろから負傷に悩まされていたこともあり、クラブでのプレーに専念するため2014 FIFAワールドカップ後にスペイン代表を引退した。
また、2001年12月29日のガーナ戦では、バスク代表としてもデビューした。
【動画】



総合評価
攻撃力【7】
守備力【8】
センス【9】
posted by よしき at 22:00| Comment(0) | スペイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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