2016年03月18日

ウーゴ・ロリス(Hugo Lloris)〜トッテナム・ホットスパーFCとフランス代表の両方で主将を務める〜

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こんにちわ

本日紹介する選手はウーゴ・ロリス選手です。

フランス・アルプ=マリティーム県ニース出身のサッカー選手。プレミアリーグ・トッテナム・ホットスパーFC所属。フランス代表。ポジションはゴールキーパー。

トッテナム・ホットスパーFCとフランス代表の両方で主将を務める。

2008年、OGCニースでプレーしていた時に母親が死去した。フレデリック・アントネッティ監督はその2日後の試合を欠場することを薦めたが、自ら出場を懇願したために国中の尊敬を集め、その試合で見事な活躍をした。2010年8月にはフランス代表のチームメイトのカリム・ベンゼマとともにFIFA 11フランス版の表紙に採用された。2010年9月23日、第1子となる娘が誕生した。

1986年12月26日、南フランスのニースにある上流階級の家庭に生まれた。彼の父親はカタルーニャ系のモンテカルロを拠点とする銀行員であり、母親は弁護士である。6歳の時、ニース郊外のシミエ(Cimiez)にあるカルチャーセンターでサッカーを始めた。そこでは様々なポジションをこなし、コーチがのボール扱いの巧さやキャッチング能力の高さに気付く前にはストライカーとしてプレーしたこともあった。13歳まではテニス選手としても優秀であった。かつてニースに在籍し、フランス代表としてもプレーしたドミニク・バラテリ(Dominique Baratelli)が古巣に獲得を進言し、10歳の時にニースの下部組織に入団した。

2005年のニース時代
3年ほどリザーブチームで過ごし、トップチームに昇格するとすぐさま背番号1を与えられた。リーグカップでは正GKのダミアン・グレゴリーニに代わってレギュラーを任せられ、2005年10月25日のシャトールー戦でプロデビューを果たし、その試合は2-0の完封勝利を収めた。次のラウンドのCSスダン戦も完封勝利し、さらに準々決勝と準決勝ではボルドーと南フランスのライバルモナコから金星を挙げて、クラブ史上初めて決勝に到達した。決勝のナンシー戦にもフル出場したが、1-2で敗れて初優勝を逃した。

リーグ・アンデビュー戦となった2006年3月18日のナンシー戦は1-0で完封勝利した。その後リーグ戦4試合に出場し、2005-06シーズンは計5試合に出場した。2006-07シーズンは長年ニースの最後尾に君臨してきたグレゴリーニを差し置いてレギュラーポジションを獲得した。38試合中37試合に出場し、16位と低迷したチームで13完封を記録した。一時は最下位に落ちるなど我慢のシーズンであったが、獅子奮迅の活躍を見せ失点数はリーグ6位の少なさだった。

2007-08シーズン序盤戦は左膝靭帯の負傷に苦しみ、9月には3週間の離脱を強いられた。10月6日のル・マン戦で復帰したが、負傷した箇所を再び痛めて71分に途中交代した。6週間の離脱の後に11月24日のPSG戦で復帰して2-1で勝利を収めた。怪我もあったが残り試合にも継続して出場し、1988-89シーズンの6位以来となる好成績の8位でリーグ戦を終えた。出場30試合で24失点に抑え、13完封を記録した。チーム全体でも30失点に抑え、ナンシーのジェンナーロ・ブラチッリャーノ(Gennaro Bracigliano)と並んでリーグ最少失点の栄誉を手にした。欧州のビッグクラブからアプローチされるようになり、将来的な契約が期待された。
ニースでの活躍を受け、グレゴリー・クーペの後釜を探していたリーグ7連覇の王者リヨン、ジーダに代わる存在を探していたミラン、ポール・ロビンソンの代役を探していたトッテナムなどの興味を引いた。ミランのアドリアーノ・ガッリアーニ(Adriano Galliani)副会長は「ロリスとの契約はすべて完了しており、ほとんど我々の選手といってよかったが、クリスティアン・アッビアーティがパレルモへの移籍を拒否したためにお釈迦になった」と後に発言した。リヨンのチャンピオンズリーグでの野望を移籍理由に挙げ、ミランではレギュラーとしての保証がないことも付け足した[21]。はじめは移籍金額が公開されなかったが、後に850万ユーロであると発表された。2008年6月1日に5年契約を結び、背番号はニース時代と同じ1に決定。クーペの後釜としてレギュラーポジションも確約された。

8月9日にシーズン開幕戦のトゥールーズ戦で移籍後初出場を果たし、3-0で勝利して初完封を記録。10月31日のライバルサンテティエンヌ戦(0-1)までに5完封をマークした。2008-09シーズンは27失点・16完封(いずれもトゥールーズのセドリック・カラッソに次ぐリーグ2位)を記録したにも関わらずボルドー・マルセイユに次ぐ3位に終わり、リーグ8連覇達成はならなかった。しかし個人の活躍が認められ、リーグ最優秀GK賞とリーグ最優秀選手賞にノミネートされた。

サインを書くロリス(2010年)
2009-10シーズンもレギュラーの座を守り、開幕から8試合でクラブ新記録となる4完封を記録した。2009年9月には月間最優秀選手賞を受賞したが、これは2008年8月にマルセイユのスティーヴ・マンダンダが栄誉に浴して以来のゴールキーパーの受賞であった。2009年10月20日にアンフィールドで行われたチャンピオンズリーグのリヴァプール戦ではディルク・カイトのヘディング、ダビド・ヌゴグのボレー、ファビオ・アウレリオのヘディング、ハビエル・マスチェラーノのミドル等リヴァプールの決定機を次々と防ぎ、前半の1失点のみに抑えて2-1で逆転勝利しフランスメディアに称賛された。11月5日のスタッド・ジェルランでのリヴァプール戦では前半だけでフェルナンド・トーレスやディルク・カイト、アンドレイ・ヴォロニン等のシュートを次々に止め、後半も素晴らしい反射神経でルーカス・レイバのミドルシュートをセーブした。試合は後半ロスタイムにリサンドロ・ロペスの得点で1-1に追い付き、イングランドきっての名門をグループリーグ敗退に追いやり、決勝トーナメント進出を決めた[25][26]。2009年11月8日のマルセイユ戦(5-5)はマンダンダとのフランス代表対決になったが、両クラブの監督やメディアが「ザル守備 (slack defending)」とこき下ろしたように両クラブとも5得点ずつを挙げる意外な展開になり、この両者の対戦では最も得点数の多い試合となった12月20日には2009年のフランス最優秀選手が発表され、チェルシーのニコラ・アネルカとボルドーのヨアン・グルキュフに次ぐ3位の得票を得た。

2010年に入っても引き続きポジションを守り、年が明けてから最初の4試合で2点しか許さなかった。2月16日のチャンピオンズリーグラウンド16レアル・マドリード戦1stレグでは、61分のクリスティアーノ・ロナウドのシュートを指先で弾いて枠外にそらし、3分後のゴンサロ・イグアインのシュートは体を投げ出して抑え、ホームでの1-0の完封勝利で2ndレグへの期待を高めた。ベルナベウでの2ndレグでは6分にロナウドに得点を許し、リーグ戦から続けていた620分間連続無失点が途切れたが、その後同点に追い付いて2試合合計2-1で準々決勝に進出した。準々決勝ではボルドーとの同国対決を制してクラブ史上初の準決勝に進んだが、準決勝では準優勝だったバイエルンに敗れた。5月2日のモンペリエ戦ではロリスのフィードからミシェル・バストスが決勝点を決め、アシストを記録した。リーグ戦は2位に終わったが、リーグ3位の33失点に抑えたため2シーズン連続でリーグ最優秀GKに選出された。

2010-11シーズン開幕前、UEFAクラブ・フットボール・アワードの最優秀GK賞にノミネートされたが、チャンピオンズリーグを制したインテルのジュリオ・セザルが受賞した[33][34]。シーズンでは引き続きゴールを守り、37試合出場で40失点とリーグ4位の数字を残したが、リーグ戦では3位・チャンピオンズリーグではレアルに前年の借りを返されてベスト16に終わり、国内カップ戦でも早期敗退して3季連続の無冠に終わった。

クロード・ピュエル監督が退任して、レミ・ガルデ新監督が就任した2011-12シーズンは36試合で49失点と前年より失点が増えてリーグ戦では4位に終わり9季連続で獲得してきたチャンピオンズリーグ出場権をついに手放し、チャンピオンズリーグでもキプロスのアポエルにPK戦の末に敗れて2季連続のベスト16に終わったが、クープ・ドゥ・フランスでは3部のクヴィイーを破って4季ぶりに優勝した。リーグ・カップでも決勝に進出したが、3連覇を狙ったマルセイユに敗れて準優勝だった。

2011年10月3日には契約を2015年まで延長した。

2012年8月31日、1200万ポンドでイングランドのトッテナム・ホットスパーFCに移籍[36]。9月20日、ヨーロッパリーグのラツィオ戦(0-0)でトッテナム移籍後初めて出場した。当初は連続試合出場記録を更新し続けるブラッド・フリーデルの控えであったが、10月7日のアストン・ヴィラ戦(2-0)でプレミアリーグにデビューした。 2014-15シーズンより副主将に就任。




フランスの代表チームにはU-18フランス代表で初めて招集され、2004年3月11日のU-18ドイツ代表との親善試合でデビューした。U-19フランス代表に移ると2005年のUEFA U-19欧州選手権に出場し、クリスティアン・グルキュフらとともに優勝を飾った。2006年にはU-20世代の各国代表が集うトゥーロン国際大会に出場して優勝した。U-19フランス代表としては20試合に出場したが、A代表と掛け持ちしたU-21フランス代表では5試合しか出場していない。2007年以降はU-21フランス代表としての出場がなかったにもかかわらず、UEFA U-21欧州選手権出場がかかったプレーオフのために14ヶ月ぶりに招集された。

2008年2月6日のスペイン戦でフランスA代表に初招集されたが、A代表でプレーする代わりにB代表のコンゴ民主共和国戦に出場した。その後も何回かA代表に招集され、11月19日のウルグアイ戦でついに初キャップを記録した。2009年9月9日のセルビア戦ではペナルティエリア内でニコラ・ジギッチを倒したと判定され、代表戦で初のレッドカードを受けた。しかし、リプレイ映像ではロリスのファールではなかったことが確認されている。出場停止処分を経て、10月14日のオーストリア戦ではフル出場して3-1の勝利に貢献した。

2010 FIFAワールドカップ本大会出場をかけたプレーオフのアイルランド戦でのプレーはメディアや選手から称賛されるものであった。かつてフランス代表の正GKだったグレゴリー・クーペはロリスの活躍を「並はずれている」(phenomenal) と表現し、フランスメディアは「聖ロリス(Saint Lloris)」との愛称を付けた。2010年5月中旬にはFIFAワールドカップに出場するフランス代表候補30人に選出され、その後発表された23人の本大会出場メンバーにも順当に選ばれた。6月11日、グループリーグ初戦のウルグアイ戦でFIFAワールドカップデビューを果たし、0-0で完封した。続くメキシコ戦では後半に2点を奪われ0-2で敗れた。3戦目の地元南アフリカ戦では相手の先制点につながるミスを犯したが、その後は度重なる好セーブで名誉挽回した。しかし、試合には1-2で敗れて1分け2敗のリーグ最下位での敗退が決まった。

2010年11月17日のウェンブリー・スタジアムでのイングランド戦ではローラン・ブラン監督に指名されてフランス代表のキャプテンに就任してプレーし2-1で勝利を飾った。2012年2月29日のドイツ戦からは正式にキャプテンに就任した。
【動画】

総合評価
攻撃力【6】
守備力【6】
センス【7】
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2016年02月08日

バカリ・サニャ(Bacary Sagna)〜派手な髪型はエクステ〜※FIFA21 使用感

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こんにちわ

本日紹介する選手はバカリ・サニャ選手です。

プレミアリーグ・マンチェスター・シティFC所属。フランス代表。ポジションはディフェンダー。
【経歴】
AJオセール
AJオセールにて2004-05シーズンにトップチームに昇格すると、ジョアン・ラデにかわってポジションを手にする。その後の3シーズンにおいてUEFAカップに出場した。

アーセナル
2007年7月12日に移籍金900万ユーロ、5年契約でアーセナルFCへ移籍。すぐにエマニュエル・エブエに代わって右バックのポジションを得た。2008年2月13日には実兄を28歳の若さで亡くしたものの、父の助言を受けてACミランとのチャンピオンズリーグ1回戦2ndレグに出場し、見事勝利した。3月23日のチェルシーFCとのビッグ・ロンドン・ダービーでプレミアリーグ初得点を記録。この得点はサニャ自身、トップチームにおける初得点でもあった。しかしこの得点の後に負傷し、このシーズンはリーグ戦29試合の出場に終わった。しかし活躍が評価され、プレミアリーグ初年度でベストイレブンに選出された。シーズンオフには新たに契約を2年延長し、契約満了を2014年までとした。

2011年10月のトッテナム戦で、足を骨折し、長期離脱していたが、2012年1月29日のFAカップ・アストン・ヴィラFC戦で約4ヶ月ぶりに復帰した。

マンチェスター・シティ
2014年6月13日、アーセナルとの契約を延長せずフリートランスファーでのマンチェスター・シティへの移籍を発表した[2]。契約期間は3年である。背番号はアーセナル時代と同じ『3』を着用することになった。

代表
代表ではU-21フランス代表として12試合に出場。2007年8月22日のスロバキアとの親善試合で途中出場し代表初出場を記録。10月13日のEURO2008予選・フェロー諸島戦ではフル出場を果たすが、前述の負傷の影響もありEURO 2008のフランス代表メンバーには入ることができなかった。EURO後の最初の試合となったスウェーデン戦で代表に復帰すると、レギュラーに定着。残りの2010年W杯予選に全てスタメン出場し、フランスのW杯出場に貢献した。EURO2012にも代表の一人として参戦する予定だったが2012年5月5日に所属するアーセナルでのノリッジ・シティFC戦で2010年10月の時と同じく右足を骨折し、EUROはおろかプレミアリーグの出場が絶望的となった。

総合評価
攻撃力【6】
守備力【6】
センス【7】
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2016年02月07日

ニコラ・アネルカ(Nicolas Sebastian Anelka)〜取り扱い注意の放浪ストライカー〜※FIFA21 使用感

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こんにちわ

本日紹介する選手はニコラ・アネルカ選手です。

フランス・ル・シェネ出身のプロサッカー選手。インディアン・スーパーリーグ・ムンバイ・シティFC所属。ポジションはフォワード。

【経歴】
パリ・サンジェルマンFC 1996-1997
アーセナルFC 1997.2-1999
レアル・マドリード 1999-2000
パリ・サンジェルマン 2000-2002
リヴァプールFC (loan) 2001.12-2002
マンチェスター・シティFC 2002-2004
フェネルバフチェSK 2005.1-2006
ボルトン・ワンダラーズFC 2006-2008
チェルシーFC 2008.1-2011.12
上海申花足球倶楽部 2012
→ ユヴェントスFC (loan) 2013.1-2013.6
ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンFC 2013-2014.3

ヴェルサイユ生まれだが両親はフランス領マルティニーク出身で、本人は2004年にムスリムであることを公表している。「Abdul-Salam Bilal」というムスリム名を持っている。
これまで6ヶ国、12クラブを渡り歩いており、チェルシーに移籍した時点での彼へのこれまでの移籍金の総額は8700万ユーロ(約140億円)に上り、これはクリスティアーノ・ロナウドがレアル・マドリードに移籍するまでサッカー史上最高額であった。アネルカ自身、様々な土地のクラブでプレーすることに魅力を感じている。
かつての恩師であったアーセン・ベンゲルからは「自分が指導した中で最も優れたFW」と称賛されている。
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1996年にフランスリーグ・アンのパリ・サンジェルマンで選手生活をスタート。育成段階から指導者の評価は高く、同じFWで2歳年上のティエリ・アンリやダヴィド・トレゼゲよりも将来を期待されていた。その後、18歳ながら50万ポンドという異例の高額で1997年にFAプレミアリーグ・アーセナルへ移籍し、得点を着実に重ねて評価を上げた。ペレはこの頃の彼を評し、「ストライカーに必要なものを全て兼ね備えている」とベタ褒めした。1999年にスペインのレアル・マドリードに移籍するも、怪我もあり不振が続いたことがあり高い評価を得られなかった。UEFAチャンピオンズリーグでは予選で2度大敗した天敵バイエルンに準決勝で2得点を奪い、勝利に貢献するという活躍もあったが結局退団。それからパリ・サンジェルマン、リヴァプール、マンチェスター・シティと移籍を繰り返し、フランス代表からは遠ざかっていた。常々フランス代表のメンバーに名を列ねているが、過去3度のW杯の代表選考では最後の方で毎回落選している。唯一EURO2000の時だけメンバーに選ばれ、優勝を経験。

ジャック・サンティニが指揮を執るフランス代表では、招集初期の親善試合で目覚ましい活躍を見せ「奴は俺たちのロナウドなのさ」とチームメイトからも賞賛されたが、レアル・マドリード移籍を境に低迷、なかなかメンバーに定着せず、怪我をしたシドニー・ゴブの代理招集を拒否してからは完全に代表と決別。2005年1月に移籍したトルコのフェネルバフチェSKでの活躍により、11月上旬に行われたコスタリカとの親善試合で、およそ3年ぶりに代表復帰を果たす。しかし2006年ドイツW杯時にフランス代表FWのジブリル・シセが骨折で絶望となった際にもレイモン・ドメネク監督に批判的だと見られた彼は代表に招集されず代役として選ばれたのはシドニー・ゴブだった。




2006年8月にボルトンに1180万ユーロ(約17億円)で移籍。2008年1月までに53試合出場21得点の成績を残し、同年1月11日にチェルシーに1500万ポンド(約32億円)で移籍。しかし本職のCFではなくウィングを任されるなど本来の力は発揮できず、わずか2得点に終わる。2008-09シーズンはスコラーリ監督の下、CFのレギュラーとしてゴールを量産。監督がヒディンクに代わってからはディディエ・ドログバに出場機会を譲ることが多くなるが、結局シーズン通算19得点でプレミアリーグ得点王に輝いた。ドログバとの2トップを自ら望むなど、その性格からは珍しい一面を見せたが、これはリヴァプール時代にマイケル・オーウェンと2トップを組んだ時などチャンスメイクする楽しさを覚えたからだという。なお、ルイス・フェリペ・スコラーリには「ドログバとの共存は不可能」と言われていたが、その後ドログバとは素晴らしい連携を見せるようになり、プレミアリーグでも屈指の2トップとなった。後にアネルカは「チェルシーに入団した時からドログバと一緒にプレーしたかった」と語っている。

フランス代表でのアネルカ(2008年)
2010 FIFAワールドカップのメンバーに選出されたが、グループステージ2戦目のメキシコ戦のハーフタイム中、ドメネク監督に対して暴言を吐いたとしてチームから追放された。その後、フランスサッカー協会に18試合(親善試合も含む)の出場停止を言い渡された。大会後に代表引退を表明した。

2012年1月、中国サッカー・スーパーリーグの上海申花に移籍し、7月にはチェルシー時代の同僚ドログバと再会するも給料の未払いなどから共に移籍を志願した。
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2013年1月、ユヴェントスFCに5ヶ月のレンタルで移籍が決定するも出場機会はほとんどなかった。
2013年7月、ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンFCに移籍決定。
2013年12月28日に行われたウェストハム・ユナイテッドFC戦で「ケネル」と言われる反ユダヤ主義のジェスチャーをし、5試合の出場停止と8万ポンドの罰金処分を受けた。なお、この騒動でウェスト・ブロムウィッチの胸スポンサーを務めていたZoopla社が2013-14シーズン限りでの撤退を決定した。
この騒動で出場停止中に、自身のTwitterでウェスト・ブロムウィッチとの契約解除を発表、ウェスト・ブロムウィッチは否定したが、ソーシャルメディアを使用した発表を規律違反と見なされ解雇を通告された。

2014年4月6日、アトレチコ・ミネイロのアレシャンドレ・カリウ会長が自身のTwitterでアネルカのアトレチコ・ミネイロ加入をツイートした[8]。しかし、アネルカがクラブに知らせずクウェートで行われたイベントに勝手に参加したことにより、4月15日にアトレチコ・ミネイロ幹部のエドゥアルド・マルフが契約の取りやめを明らかにした。


総合評価
攻撃力【8】
守備力【4】
センス【8】
posted by よしき at 19:00| Comment(0) | フランス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月27日

キングスレイ・コマン(Kingsley Coman)〜フランス若手No1注目株〜※FIFA21 使用感

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こんにちわ

本日紹介する選手はコマン選手です。

フランス・パリ出身のサッカー選手。ポジションはMF、FW。バイエルン・ミュンヘン所属。

【代表歴】
フランス代表として各年代でプレーしている将来を嘱望される選手である。
2015年11月5日、国際親善試合に挑むフランス代表のメンバーに初招集された。

【パリ・サンジェルマンFC】
2004年からパリ・サンジェルマンFCのユースチームに所属し、2013年にトップチームに昇格した。2月13日、FCソショー戦でマルコ・ヴェッラッティとの交代途中出場でプロデビューを果たした。16歳と246日でデビューを果たし、ニコラ・アネルカが記録したクラブ最年少デビュー記録を更新した。
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【ユヴェントスFC】
2014年7月8日、イタリアのユヴェントスFCへ5年契約で移籍した。背番号はパヴェル・ネドヴェドらが着用した11番。
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【バイエルン・ミュンヘン】
2015年8月、バイエルン・ミュンヘンへの2シーズンのレンタル移籍を700万ユーロで契約が完了した事を発表。合意は、バイエルン・ミュンヘンに2017年4月30日までいつでも完全移籍をできるオプションを提供され、なお、2100万ユーロという買い取りオプションがついている[4]とユベントスの公式ホームページで発表された。本人はバイエルン移籍について入団会見で「今までもヨーロッパのビッグクラブでプレイしたことがあるが、バイエルンは僕にとって他のクラブより上だ。チームに貢献したいし、タイトルを獲得したい。全力を尽くすつもりだよ」とコメントしている。

【動画】



総合評価
攻撃力【8】
守備力【7】
センス【7】
posted by よしき at 22:58| Comment(0) | フランス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする