2020年05月13日

ニコラ・カリニッチ(Nikola Kalinić)〜左右の脚を遜色なく使い様々な体勢からシュートを蹴る〜※動画あり

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こんにちわ

本日紹介する選手は選手です。

クラブ
クロアチア時代

クロアチアのHNKハイデュク・スプリトのユース部門で育成期間を過ごし、2005年から17歳にして同クラブのシニア所属の選手となった。同年すぐにNKイストラ1961にレンタルされプロデビューを果たした。デビューシーズンは12試合出場し3得点をあげる。当時同クラブを率いていたクルノスラフ・ユルチッチ監督は「カリニッチはクロアチアのイブラヒモビッチになれる」と評した。本人はイストラに残ることを希望したが、2006-07シーズンは保有権を持つハイデュク・スプリトの意向でHNKシベニクにレンタルで移籍し、8試合出場、3得点をする。出場機会は限られたものの、同クラブではオールラウンドなプレースタイルと得点能力の高さを垣間見せた。
クロアチアのプロリーグで通用することを証明したカリニッチは、2007-08シーズンからはハイデュク・スプリトにレンタルバックし19歳でファーストチームに所属することになった。レンタルバックした復帰1年目から主力として活躍し、リーグ戦では25試合出場17得点した。このシーズンのリーグ得点王とはならなかったものの、翌年16得点で得点王となったマリオ・マンジュキッチを上回る得点数であり19歳のフォワードとして高く評価された。2008-09シーズンはリーグ戦に28試合に出場15得点をし、前述のマンジュキッチと得点王争いをする活躍をする。シーズン終了後にカリニッチは英国プレミアリーグのポーツマスFCのトライアルを受けるものの、移籍金の面で合意に至らず移籍は破談となった。

ブラックバーン

2009年8月3日、イングランドのブラックバーン・ローヴァーズFCに移籍した[2]。移籍初年度は26試合に出場し2得点をあげる。得点数は少なかったものの主力の一員としてサム・アラダイス監督の構想には入っていたが、翌年監督がスティーブ・キーンに代わると出場機会が減っていった。ブラックバーンの2年間で44試合出場7得点の成績を挙げた。
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ドニプロ

2011-12シーズンよりウクライナのドニプロに移籍。4年間82試合出場で34得点。2014-15シーズンにチームはヨーロッパリーグ決勝まで駒を進め、決勝戦でゴールを決めた(試合はセビージャに2-3で敗北)。この活躍が評価され、2015-16シーズンよりACFフィオレンティーナに移籍。

フィオレンティーナ

2015年8月14日に4年契約の完全移籍にてフィオレンティーナに所属することが同クラブの公式サイトにより発表された。同年9月27日に行われたセリエA6節の対インテル戦においてトリプレッタ(3得点)を記録し、フィオレンティーナを16年ぶりのリーグ首位につける勝利(4対1)に大きく貢献した。

代表
世代別代表で得点を量産し、UEFA EURO 2008のメンバーに選ばれると、大会前に行われた2008年5月24日のモルドバ戦でクロアチア代表デビュー。大会本戦ではグループリーグ第3戦のポーランド戦に途中出場した。
2010年11月16日のUEFA EURO 2012予選マルタ戦で代表初得点を記録。2011年2月9日のチェコ戦では初めて2得点を挙げた。

人物
戦術理解度が高く、チームのために献身的な働きができる柔軟なセンターフォワードであると評価されている。前線からの守備や身長の高さを活かしたポストプレーにも優れる。ゴール前では非常に冷静であり、左右の脚を遜色なく使い様々な体勢からシュートを蹴ることが可能である。

エピソード
元ACミランの選手で解説者を務める同胞のズボニミール・ボバンは「若いころのカリニッチは怪物のようだった」と評している。ドニプロを経てフィオレンティーナでの活躍の様子は「成熟し、落ち着きを増してプロフェッショナルとなった」と語っている。


【注目の動画】


総合評価
攻撃力【7】
守備力【7】
センス【6】
posted by よしき at 23:00| Comment(0) | クロアチア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月25日

マリオ・マンジュキッチ(Mario Mandžukić)〜ブッフォンの天敵〜

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こんにちわ

本日紹介する選手はマリオ・マンジュキッチ選手です。

クロアチア東部スラヴォンスキ・ブロド出身のサッカー選手。セリエA・ユヴェントスFC所属。クロアチア代表。ポジションはフォワード。
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【経歴】
幼少時にドイツで過ごしていた時期があり、シュトゥットガルト近郊のディツィンゲンという町のクラブでサッカーを始めた。その後出身地に戻り、1997年から2003年までNKマルソニアのユース組織に所属した。2005年夏にNKザグレブに移籍。元クロアチア代表監督であるミロスラヴ・ブラジェヴィッチの指導の下で才能を伸ばし、他の多くのクラブから関心を持たれるようになった。

2007年夏、クロアチア内の強豪NKディナモ・ザグレブに、エドゥアルド・ダ・シルヴァの代役として130万ユーロの移籍金で移籍[1]。移籍初年度は29試合出場で12ゴール、11アシストを記録した反面、8枚のイエローカードを受けるという不名誉な記録も残してしまった。2008-09シーズンは、28試合に出場し16ゴールをあげ、クロアチアリーグ得点王に輝いた。シーズン終了後、ドイツのヴェルダー・ブレーメンから1200万ユーロの移籍金で獲得のオファーがあったが、ディナモは1500万ユーロを要求し破談に終わった。

2009年9月17日のUEFAヨーロッパリーグ、RSCアンデルレヒト戦(ホームで0対2の敗戦)後、試合中の低調なパフォーマンスと、以前に行われたUEFAチャンピオンズリーグ予選、レッドブル・ザルツブルク戦でのレッドカードの責任を問われ、10万ユーロの罰金という高額な懲罰が課された。これはクラブ史上初の経済的懲罰だった。

2010年7月16日、ドイツのVfLヴォルフスブルクへ移籍。移籍金は700万ユーロと報道されている。
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12得点を挙げた2011-12シーズンと、UEFA EURO 2012でグループリーグで敗退したものの3試合で3得点した活躍が評価されて、2012年6月27日に1300万ユーロでバイエルン・ミュンヘンに移籍した。

2012-13シーズンはマリオ・ゴメスの控えと思われたものの、ゴメスの怪我もありスタメンに定着しユップ・ハインケスの下でのシーズン三冠に貢献した。 2013-14シーズンも前線の軸として活躍しリーグ戦とDFBポカールの二冠に貢献した。しかし、公式戦で次第にスタメンから外れることが多くなりDFBポカールの決勝のメンバーでも外れることをジョセップ・グアルディオラが発表しロベルト・レヴァンドフスキの獲得もあり退団が確実視された。後に本人はグアルディオラとの確執をほのめかしている。

2014年7月、バイエルン・ミュンヘンのスポーツディレクター、マティアス・ザマーがアトレティコ・マドリードとバイエルン及びマンジュキッチ本人との間に移籍合意していることを明かした[6]。その後、4年契約でアトレティコに加入することが発表された。背番号は9番。8月22日のスーペルコパ・デ・エスパーニャのレアル・マドリード戦で決勝点を決め、公式戦初得点を記録した。 しかし、負傷の影響もあって後半戦は不調、29試合で10得点に終わった。
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2015年6月、ユヴェントスFCのマッシミリアーノ・アッレグリがマンジュキッチ獲得の報道を認め、後にユヴェントスFCがマンジュキッチ獲得を正式発表した。契約は4年間で移籍金は1900万ユーロ。背番号はダビド・トレゼゲが着用し本人がクロアチア代表でも着用している17番。

※ジャンルイジ・ブッフォンは2012年以降、計7回を数えるマリオ・マンジュキッチとの勝負に1度も勝てていない
【悪童】
ユース時代に自動車を5台放火し、少年院送り!!

【動画】



総合評価
攻撃力【8】
守備力【6】
センス【7】


posted by よしき at 09:00| Comment(0) | クロアチア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする